21
投手
藤川 昂蓮
Koren Fujikawa

プロフィール

- 投打
- 右投右打
- ニックネーム
- こうれん
- アピールポイント
- ストレート
- 出身地
- 京都府
- 出身校
- 安祥寺中学校 - 京都外大西高校 ‐ 東北福祉大学
- 血液型
- O型
- 趣味
- You Tube
- 好きな言葉
- 自己研磨
- 休日の過ごし方
- したいことをする
- 尊敬する人
- 両親




ヒストリー
野球をはじめたころ
野球を始めたのは6歳の時。母に体験練習へ連れていってもらったことがきっかけだ。
元々足が遅かったため、いかにホームランを打つかを考えていた。とにかくバッティングがとても大好きだった。また、体格がよかったのでキャッチャーをやる機会が多かった。練習以外でも、学校が終わった後近くの公園でテニスボールを使って毎日のように友達と野球をやっていた。ただ、小学校時代は一度も優勝できなかったことがとても悔しかった。
野球を始めたのは6歳の時。母に体験練習へ連れていってもらったことがきっかけだ。
元々足が遅かったため、いかにホームランを打つかを考えていた。とにかくバッティングがとても大好きだった。また、体格がよかったのでキャッチャーをやる機会が多かった。練習以外でも、学校が終わった後近くの公園でテニスボールを使って毎日のように友達と野球をやっていた。ただ、小学校時代は一度も優勝できなかったことがとても悔しかった。
中学・高校時代
中学校に入ってからも、最初はずっとキャッチャーをしていた。2年生になったころからピッチャーもやり始めたが、キャッチャーがいなくなるため兼任していた。途中、キャッチャーをできる子が入部してくれたおかげでピッチャーに専念できるようになった。
高校は、地元で当時3強といわれていた高校に進学でき、とてもうれしかった。ただ、一度も甲子園に出場できず、どの大会も思うような結果を残すことができなかった。また、高校2年生ごろからフォームを崩してしまい、そこからずっと悩むようになっていた。結局卒業するまで解決できずに終わってしまった。
中学校に入ってからも、最初はずっとキャッチャーをしていた。2年生になったころからピッチャーもやり始めたが、キャッチャーがいなくなるため兼任していた。途中、キャッチャーをできる子が入部してくれたおかげでピッチャーに専念できるようになった。
高校は、地元で当時3強といわれていた高校に進学でき、とてもうれしかった。ただ、一度も甲子園に出場できず、どの大会も思うような結果を残すことができなかった。また、高校2年生ごろからフォームを崩してしまい、そこからずっと悩むようになっていた。結局卒業するまで解決できずに終わってしまった。
大学時代
入学に向けセレクションを受けた。控室のほかの選手のユニフォームが全国の強豪校ばかりで、「まじかよ」とつい本音が口から出てしまった。合格した時は、自分自身が一番びっくりした。しかし、大学3年まで納得できるピッチングができず、もがき苦しんでいた。大学3年春に「このままではなんで仙台に来たんかわからん」と決意して肉体改造を開始。秋ごろには今の投げ方に出会い、その相乗効果で4年春に152kmが出せるようになっていた。4年の時、春の全国大会決勝で先発で起用され、「ほんまにがんばってきてよかった」と思えた。その年の全日本大学野球選手権大会でも優勝した。また、野球だけでなく新設の教育学部に入り、野球と並行して教員免許を取得し卒業できたことはとても誇りだ。
入学に向けセレクションを受けた。控室のほかの選手のユニフォームが全国の強豪校ばかりで、「まじかよ」とつい本音が口から出てしまった。合格した時は、自分自身が一番びっくりした。しかし、大学3年まで納得できるピッチングができず、もがき苦しんでいた。大学3年春に「このままではなんで仙台に来たんかわからん」と決意して肉体改造を開始。秋ごろには今の投げ方に出会い、その相乗効果で4年春に152kmが出せるようになっていた。4年の時、春の全国大会決勝で先発で起用され、「ほんまにがんばってきてよかった」と思えた。その年の全日本大学野球選手権大会でも優勝した。また、野球だけでなく新設の教育学部に入り、野球と並行して教員免許を取得し卒業できたことはとても誇りだ。

