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コーチ
板倉 健人
Kento Itakura
プロフィール
- 投打
- 右投右打
- ニックネーム
- イタさん、バイス
- アピールポイント
- 守備位置までの全力疾走
- 出身地
- 静岡県
- 出身校
- 小笠浜岡リトルシニア-静岡高校-立正大学
- 血液型
- A型
- 趣味
- ゴルフ
- 好きな言葉
- 忍耐力
- 休日の過ごし方
- ゴルフ、ショッピング
- 尊敬する人
- 両親
ヒストリー
野球をはじめたころ
小学2年生のころ、野球好きの父がよくプロ野球中継を見ていたのを横で見ていて、野球選手ってカッコイイなと思い、野球を始めた。早くうまくなりたくて近くの中学校のグラウンドで、1人でずっと壁当てをしていた。また、チームの練習とは別に週2回野球教室に通うほか、父と自宅でバッティング練習をしたり、野球漬けで毎日クタクタだった。6年生になると主将を任された。地方大会で3回の優勝、県大会でもベスト4入りを果たしたことは一番の思い出だ。
小学2年生のころ、野球好きの父がよくプロ野球中継を見ていたのを横で見ていて、野球選手ってカッコイイなと思い、野球を始めた。早くうまくなりたくて近くの中学校のグラウンドで、1人でずっと壁当てをしていた。また、チームの練習とは別に週2回野球教室に通うほか、父と自宅でバッティング練習をしたり、野球漬けで毎日クタクタだった。6年生になると主将を任された。地方大会で3回の優勝、県大会でもベスト4入りを果たしたことは一番の思い出だ。
中学・高校時代
中学校では学校の部活ではなく、硬式野球(リトルシニアリーグ)のクラブチームに入部。軟式ボールから硬式ボールに変わり、最初は捕るのも打つのも手が痛くて苦労した。練習も厳しく毎日泣きそうだった。。。今思うと、このシニア時代の練習が今までの野球人生で一番きつかった。中学時代はつらい思い出しかなく実績も残せなかったが、野球選手としての土台が築かれ、今に生かされていると実感している。高校では、1年夏からレギュラーとして試合に出場することができたものの、3年春の県大会優勝が最高成績で甲子園出場は果たせなかった。また、中学・高校でも、主将を務めた。
中学校では学校の部活ではなく、硬式野球(リトルシニアリーグ)のクラブチームに入部。軟式ボールから硬式ボールに変わり、最初は捕るのも打つのも手が痛くて苦労した。練習も厳しく毎日泣きそうだった。。。今思うと、このシニア時代の練習が今までの野球人生で一番きつかった。中学時代はつらい思い出しかなく実績も残せなかったが、野球選手としての土台が築かれ、今に生かされていると実感している。高校では、1年夏からレギュラーとして試合に出場することができたものの、3年春の県大会優勝が最高成績で甲子園出場は果たせなかった。また、中学・高校でも、主将を務めた。
大学時代
大学は、戦国東都と言われるリーグに所属している、立正大学に進学。金属バットから木製バットに変わり、打撃に苦しんだ。バットはすぐ折れるし、打球も飛ばない。先輩にアドバイスをもらい、ひたすら練習に励んだ。2年春からサードのレギュラーとして、試合に出場したものの全く打てず、レベルの高さを痛感。1つ年上の先輩で現在千葉ロッテマリーンズで活躍している、吉田裕太さんに朝から晩まで一緒に練習していただき、3年春から結果がでた。しかし、1部リーグに一度も昇格することはできず、4年間2部リーグだった。この悔しさを社会人で果たそうと思い、日本新薬に入社した。小学校から大学までの学生時代、全てのステージで主将を務め、山あり谷ありの野球人生を送ってきた。
大学は、戦国東都と言われるリーグに所属している、立正大学に進学。金属バットから木製バットに変わり、打撃に苦しんだ。バットはすぐ折れるし、打球も飛ばない。先輩にアドバイスをもらい、ひたすら練習に励んだ。2年春からサードのレギュラーとして、試合に出場したものの全く打てず、レベルの高さを痛感。1つ年上の先輩で現在千葉ロッテマリーンズで活躍している、吉田裕太さんに朝から晩まで一緒に練習していただき、3年春から結果がでた。しかし、1部リーグに一度も昇格することはできず、4年間2部リーグだった。この悔しさを社会人で果たそうと思い、日本新薬に入社した。小学校から大学までの学生時代、全てのステージで主将を務め、山あり谷ありの野球人生を送ってきた。