01
内野手(新人)
柳舘 憲吾
Kengo Yanagidate
プロフィール

- 投打
- 右投左打
- ニックネーム
- だて
- アピールポイント
- バッティング
- 出身地
- 兵庫県
- 出身校
- 日本大学第三高校-國學院大学
- 血液型
- B型
- 趣味
- 古札集め
- 好きな言葉
- 明元素
- 休日の過ごし方
- おいしいご飯を食べに行く
- 尊敬する人
- 大学の監督
ヒストリー
野球を始めたころの思い出
小学1年生の頃、家の壁にチョークでストライクゾーンを書いて日が暮れるまで壁当てをしていたり、姉のソフトボールについていき、よくキャッチボールをしていた。小学3年生の頃、姉が所属していたソフトボールの反対側でしていた野球チームに一緒にノックしよと誘われ、本格的に野球を始めた。そのチームが思いのほか強く、練習も毎日あったため、大変だったという思い出が強い。小学5年生の頃、日本一の経験をし、練習の大切さと運が大切だなと感じた。小学6年生の頃、侍ジャパンのアジア選手権でフィリピンに行ったが、野良犬とホームレスの数に驚いたのを覚えている。
小学1年生の頃、家の壁にチョークでストライクゾーンを書いて日が暮れるまで壁当てをしていたり、姉のソフトボールについていき、よくキャッチボールをしていた。小学3年生の頃、姉が所属していたソフトボールの反対側でしていた野球チームに一緒にノックしよと誘われ、本格的に野球を始めた。そのチームが思いのほか強く、練習も毎日あったため、大変だったという思い出が強い。小学5年生の頃、日本一の経験をし、練習の大切さと運が大切だなと感じた。小学6年生の頃、侍ジャパンのアジア選手権でフィリピンに行ったが、野良犬とホームレスの数に驚いたのを覚えている。
中学・高校野球時代の思い出
中学の頃、のびのび野球をし、怪我することもなく楽しかった。そんなチームから日大三高に入れたのは奇跡であった。中学のチームの会長がかけた電話1本で見に来てもらうことになり、その日で決まった。ここが野球人生においての大きな分岐点だったと今となっては思う。高校の頃、コロナ世代になるとは想像つかなかったし、当時は悔しい思いが強かったが、当たり前のありがたさを知れてよかったと思う。冬合宿ののラン最終日の朝ランをした後のお風呂が人生で一番気持ちよかった。
中学の頃、のびのび野球をし、怪我することもなく楽しかった。そんなチームから日大三高に入れたのは奇跡であった。中学のチームの会長がかけた電話1本で見に来てもらうことになり、その日で決まった。ここが野球人生においての大きな分岐点だったと今となっては思う。高校の頃、コロナ世代になるとは想像つかなかったし、当時は悔しい思いが強かったが、当たり前のありがたさを知れてよかったと思う。冬合宿ののラン最終日の朝ランをした後のお風呂が人生で一番気持ちよかった。
大学時代の思い出
國學院大學に入学し、東都リーグで4年間一部に残り続けた。大学1年生の頃、秋のリーグ戦開幕スタメンを獲得したが、成績が振るわずベンチ外も経験した。しかし諦めることなく練習した結果、その年出場した明治神宮大会でホームランを打つことが出来た。大学3年生の頃、首位打者を獲得し、侍ジャパンの最終選考に選出したが落選した。その悔しさを糧に、1年後選出されリベンジをすることが出来た。世界大会の開幕戦はベンチしスタートだったが、少ないチャンスをものにし、最終的には打点を誰よりも稼ぐことが出来た。そしてプロ志望届を提出したが、指名されることはなかった。様々なことを経験することが出来た大学時代であった。
國學院大學に入学し、東都リーグで4年間一部に残り続けた。大学1年生の頃、秋のリーグ戦開幕スタメンを獲得したが、成績が振るわずベンチ外も経験した。しかし諦めることなく練習した結果、その年出場した明治神宮大会でホームランを打つことが出来た。大学3年生の頃、首位打者を獲得し、侍ジャパンの最終選考に選出したが落選した。その悔しさを糧に、1年後選出されリベンジをすることが出来た。世界大会の開幕戦はベンチしスタートだったが、少ないチャンスをものにし、最終的には打点を誰よりも稼ぐことが出来た。そしてプロ志望届を提出したが、指名されることはなかった。様々なことを経験することが出来た大学時代であった。