12
投手
齋藤 弘志
Hiroshi Saito
プロフィール
- 投打
- 左投左打
- ニックネーム
- ひろし
- アピールポイント
- テンポの良さ
- 出身地
- 大阪府
- 出身校
- 八尾ペッカーズ‐大阪産業大附属高校‐中部学院大学
- 血液型
- B型
- 趣味
- 娘と遊ぶ
- 好きな言葉
- 全力投球
- 休日の過ごし方
- 映画鑑賞
- 尊敬する人
- 西野 史人(硬式野球部コーチ)
ヒストリー
野球をはじめたころ
毎日友達と野球をして遊んでいた。小学校1年生の時に、兄の影響でソフトボールチームに入部した。チームはとても弱くあまり勝った記憶がない。低学年の時は出場機会もなく応援と砂遊びに必死だった。高学年になると試合にも出場できるようになり、試合に出る楽しさを知ることができた。ピッチャーをしたらコントロールが悪すぎて『壊れたピッチングマシン』と言われていた。
毎日友達と野球をして遊んでいた。小学校1年生の時に、兄の影響でソフトボールチームに入部した。チームはとても弱くあまり勝った記憶がない。低学年の時は出場機会もなく応援と砂遊びに必死だった。高学年になると試合にも出場できるようになり、試合に出る楽しさを知ることができた。ピッチャーをしたらコントロールが悪すぎて『壊れたピッチングマシン』と言われていた。
中学・高校時代
中学では硬式のチームに入部した。中学時代は主に投手をしていた。控え投手でのんびりと野球をしていた。当時はやる気もなく、練習にも行くのが嫌だった。そして練習から帰ってきても素振りを強制的にさせられていたことを覚えている。
高校は、大阪産業大学附属高校に進学した。自分の思い描いていた高校生活と現実が違いすぎて、大きな戸惑いと苦しみが多かった。監督、コーチや先輩が怖くて本当にやっていけるのか不安で仕方がなかった。試合で投げても打たれて途中交代になり走らされ、その繰り返しで気づくと高校生活が終わっていた。甲子園には出場できなかったが、毎日かけがえのない仲間と苦しい練習を乗り越えたことは今でもいい思い出になっている。
中学では硬式のチームに入部した。中学時代は主に投手をしていた。控え投手でのんびりと野球をしていた。当時はやる気もなく、練習にも行くのが嫌だった。そして練習から帰ってきても素振りを強制的にさせられていたことを覚えている。
高校は、大阪産業大学附属高校に進学した。自分の思い描いていた高校生活と現実が違いすぎて、大きな戸惑いと苦しみが多かった。監督、コーチや先輩が怖くて本当にやっていけるのか不安で仕方がなかった。試合で投げても打たれて途中交代になり走らされ、その繰り返しで気づくと高校生活が終わっていた。甲子園には出場できなかったが、毎日かけがえのない仲間と苦しい練習を乗り越えたことは今でもいい思い出になっている。
大学時代
高校時代の先輩の誘いで、中部学院大学に進学。誘ってくださった先輩は、自分が入寮して2週間で野球部を退部した。1年生からリーグ戦で登板し、2年生からは主戦投手となった。大学選手権に1回、明治神宮大会に2回出場することができた。3年生の秋には大学JAPANの候補合宿に参加することができた。残念ながらメンバーに入れなかったが、レベルの高い選手と野球ができたことはとてもいい経験になった。
高校時代の先輩の誘いで、中部学院大学に進学。誘ってくださった先輩は、自分が入寮して2週間で野球部を退部した。1年生からリーグ戦で登板し、2年生からは主戦投手となった。大学選手権に1回、明治神宮大会に2回出場することができた。3年生の秋には大学JAPANの候補合宿に参加することができた。残念ながらメンバーに入れなかったが、レベルの高い選手と野球ができたことはとてもいい経験になった。